●エッセイ3
愛すべき5人のニョマン

■ニョマンは、"3番目の子供"という意味の名前

僕はバリでニョマンという人たちにたくさん出会いました。洋服屋のニョマンちゃんでしょ、シーブリーズのニョマンさん、遊び人のニョマンくんにも。そのニョマンくんの妹の旦那の名前もニョマンくん...ポピーズのフロントマネージャーだってニョマンさんです。バリ人のほとんどはヒンドゥ教で、厳格ではないけれど階級分けされています。その階級によって名前のつけられ方も違うけれど、90%以上を占めるスードラ階級と呼ばれる平民階級の人たちが、僕たちがバリで出会う平均的なバリ人で、ワヤン、マデ、ニョマン、クトゥッという名前が付いています。

その名前は、何番目の...という意味でつけられています。1番目がワヤン、プトゥ、グデ。2番目がマデ、カデ、ヌガ。3番目がニョマン、コマン。4番目がクトゥッ。そして5番目からまたワヤン....というふうに。それ以上の人数なら繰り返しつけられていきます。今はバリヒンドゥ教以外に、モスリムやクリスチャン、ブディストも増えていますが、たいてい今でもそういう名前がついています。ついでに言うと、その名前の後にそれぞれ固有の名前が付きます。例えば洋服屋のニョマンちゃんのフルネームは、ニ・ニョマン・ケルティと言います。最初のニは女性を表し、男ならイとなるのです。ニョマンは3番目の子供という意味。そして、ケルティというのが固有名詞ということになります。苗字はありません。(苗字のように、おじいさんの名前を全員につける人たちもいます)

繰り返してつけていくわけですから、計算上ではワヤンがいちばん多いことになるのです。それなのになぜか僕の知り合いや友人には3番目のニョマンが多いのです。なぜだろうと考えました。たぶん、3番目あたりの子供が僕と気が合ったのかも知れません。そんな気がしました。今、デンパサール(これはバリの州都)に住んでいるような都会派の夫婦には、子供は二人までという人たちが多いようです。家も狭いし、忙しいし、どうしてもたくさんの子供をつくる環境が得られない。どこの国でも都会に住む人間は同じ悩みを抱えているようです。最近では村に暮らしている人もだんだんそうなってきているようですが、少なくとも僕らの年齢以前のバリの子供たちは5〜6人の兄弟姉妹はあたりまえで、7〜8人も別に珍しくはありません。

これだけ子供の数が多いと簡単には当てはまらないかも知れませんが、日本でもよく言われるように子供の順番で性格付けができるかもしれません。長男はまじめで慎重派、末っ子は甘えん坊でわがまま....なんて。バリ人にもそんな性格付けみたいなことがあてはまるとすれば、妙に納得できるところもあります。ニョマンは真ん中あたりの子供。好奇心が強く、しっかりしていて、年上年下関係なくつきあえて協調性もある...確かに彼らはみんな僕たち外国人に平気で話しかけてきたし、話していてもおもしろい。そうかと言って、決してちゃらんぽらんな人間性でもない。だから気も合ったし、友達になれたような気がします。

■スリーピー・ニョマンさん

最初に知り合ったニョマンは、レストラン"シーブリーズ"のニョマンさんでした。今はもうこのレストランにはいませんが、クタのレギャン通りにあって、奥が安宿になっているオーストラリア人経営のレストラン・バーです。ついでに言っておきますが、ここのクタサンセットというカクテルはうまい!ナシゴレンもなかなかいけます。バリで食べたナシゴレンの中では上位に入ります。バリに来たことのある人からの紹介で教えてもらった店で、ニョマンさんは雇われマネージャーでした。名前はニョマン・ブディマンと言って、もう40才も半ばを過ぎたいいおじさんですが、僕らが知り合う少し前まではオージー・キラーと異名をとる遊び人として名高かったらしいのです。彼は働くことがあまり好きではなく、午前中に彼の店に行くとたいてい店の隅で居眠りしているような人でした。彼の友人はスリーピー・ニョマンと呼んでいました。英語がかなり流暢なのでオーストラリア人とビジネスを始めたようで、初めは金回りも良く、当時は珍しい大型バイクに跨っていたほどです。下ネタが好きで、そんな話の時は眠気を感じさせないほどの饒舌になり、我々にスケベ・ニョマンと呼ばれてしまいます。初めてのバリ旅行では、バイクで一緒にツーリングをしたし、友人のバイク事故でもお世話になっりました。事故が起きた時、僕たちと一緒に真っ先に病院に駆けつけてくれたのですが、病院中に響き渡る友人の「痛いヨー」という声に怖じ気づいて、病室まで入って来られなかった気の弱い人物でもあります。先日、バリの教会で会いました。当時は華奢な体の2枚目だったのに、恰幅の良いおじさんになってたのには驚きです。

■風来坊のニョマンくん

店でブディマンさんと誰かが話をしていると、必ず近寄ってきて話に加わる男がいました。その若者もニョマンくんという名前です。ブディマンさんとは同じチャングー村の出身で、シーブリーズによく出入りをしているらしいのですが、いつもそうやって友達づきあいを広めていたのです。出会った当時、24才にもなっているのに決まった職のない風来坊で、兄さんの経営する旅行会社のオフィスの2階で寝泊まりしていたような男でした。僕たちと知り合う少し前まで、船乗りの仕事をしながら中近東まで行き某有名ホテルで働いたそうですが、バリに帰ってきてもしばらくはぷらぷらと遊び人のような生活を続けていました。実は彼の兄さんはバリ観光協会の重鎮のひとりで、オランダ大使館の名誉領事にも任命されているほどの人物。オランダ人の女性と結婚し、外国人の友達が多い国際派です。そういう兄さんの背中を見ていたからか、風来坊という生活が功を奏したのか交友関係はひろく、今ではそういう関係を利用してうまくビジネスをしています。ニョマンさんと同じ名前でわかりにくかったこともあり、年齢も1才若かったので、彼をニョマンくんと、君付けで呼びました。僕たちが同じ名前に困っていたのを理解して、彼も自分のことをニョマンくんと言ってます。彼はクリスチャンでラファエルという名前がついています。固有名のガナ・プルワというのは、知恵の神様ガネーシャに捧げるというような意味で親につけてもらったそうです。風来坊だったおかげで僕たちも知り合えることができたわけですが、今でも親友であり、良きビジネスパートナーになってくれています。

■ニョマンくんの義弟もニョマン

そのニョマンくんの妹のご主人も、ニョマンと言うのです。彼と話をするときは混同しやすいので、義兄のニョマンをラファエルと呼び、義弟をウイディアルサという名前で呼ぶようにしています。ある時ニョマンくんから、「義弟が日本に出稼ぎに行ってホームシックにかかっている。彼の母親がケーキを焼いたので持っていって欲しい」ケーキを託されたのです。僕は彼に会ったことはなかったけれど、友人の頼みなので引き受けました。仕事場が茨城県だったのでケーキは郵送したけれど、その後手紙や電話が来るようになりました。「冬は寒くて辛い。帰りたい。」と弱気なことを言うので、「頑張れ!」と仕事場まで励ましにも行きました。しばらくの間僕が彼だと思って電話で話していたのは、一緒に日本に来ていた友人のワヤン・プリヤという男だった、なんていうこともありました。ニョマン自身はシャイで無口な男だったので、日本語が覚えられず、友人に通訳をしてもらっていたのです。そういう縁で、バリに帰る前の1週間、イミグレーションまで付き添ったり、東京めぐりにつきあったりもしました。彼は日本で稼いだお金でバリのデンパサールに家を建てました。リビングやキッチン以外に3部屋もある、なかなかりっぱな家でした。しかし彼は働くことが好きではなく、カード遊びに夢中になっていたため、家を建てた残りのすべてのお金を使い果たしてしまいました。義兄のニョマンくん曰く「日本に出稼ぎに行くような男は怠け者がおおいのさ」。

■フロントのニョマンさん

ポピーズのニョマンさんは、おおらかに笑う女性です。ポピーズコテージのフロントマネージャーで、僕を見かけると大きな声でキャーキャー笑いながら手を振ってくれるのです。それは別に僕がかっこいいからじゃありません。どう考えてもそうじゃないので、彼女が新人の時から僕が知っているからだと思っています。だんだんと年齢を重ねてきて、黄色い声から茶色い声に変わってしまったけれど、大きい体を揺らし、白い歯を見せながら笑う笑顔はいまも変わりません。メラティという名前は、ジャスミンの花という意味。子供が産まれてから、いちだんとふくよかで、おおらかになりました。僕と何気ない話しをするときは若い女の子のようにキャハキャハしているのですが、他のお客さんが何か尋ねると突然キリッと顔が引き締まり、人が変わったようになります。すごいなぁ、あの若かった女の子がプロフェッショナルになったんだなぁなんて、しみじみと感じました。そうですよね、もう立派なマネージャーさんです。彼女がいるおかげで、ポピーズはかなり居心地がよいのです。

■洋服屋のニョマンちゃん

洋服屋のニョマンちゃんは15年前、彼女が20才だった頃に知り合ったかわいい女の子でした。3年後に再会した時はすでに警察官と結婚していて、その5年後くらいからでしょうか、どこに行ったかわからなくなってしまいました。日本語は話せなかったけれど、英語は上手でした。とてもかわいらしく、愛嬌があり、とても感じの良い娘でした。ある日「昨日私のダンス見て写真を写していたでしょ。後でちょうだいね。」と言うので、びっくりしました。確かにクタのバレ・バンジャールで開催されたケチャダンスの中で、かわいいと思って見ていたダンサーはいましたけど、まさか彼女がそのダンサー? そう言われてもまだ半信半疑でしたけれど、日本に帰って写真を現像してみたら確かに彼女は写っていました。

2度目のバリ旅行ではその写真を持って彼女の店に行ったけれど、その店に彼女はいませんでした。あきらめかけていたところ、別の店でたまたま会うことができました。3年前と変わらず歓迎してくれて、何時間も店先で話し込みました。いつも会えばおみやげもののバティックや洋服を安く売ってくれるのですが、彼女の店は古いタイプのおみやげ屋さんだったので本当はいらなかったけれど、結局いつもたくさん買わされてしまうことになりました。彼女としては親切心なのでしょう。かなり安くしてくれるのです。ある時、彼女の店の近くの華人経営のレストランが火事になったことがあります。ビーチでマッサージしていた僕に彼女は助けを求めに走ってきました。「助けて!商品に火が燃え移らないように、洋服をどかさなければならないの。」汗だくになって手伝いました。運び出してもなくならない洋服の多さに間に合わないかも知れないと焦りましたが、ほどなく鎮火され、大事には至りませんでした。彼女とはもう会えなくなってしまっけれど、今頃はきっといいお母さんになっているでしょう。

 


 

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